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第四章 共にある時間

Author: 佐薙真琴
last update Huling Na-update: 2025-12-06 09:23:57

 翌日、透花は写真を持って蒼の病室を訪れた。

 蒼はベッドに座り、点滴を受けながら本を読んでいた。透花を見ると、嬉しそうに笑った。

「来てくれたんだ」

「うん。これ、見て」

 透花はスマートフォンの画面を蒼に見せた。

 深紅の薔薇の写真。

 蒼は目を見開いた。

「これ……どこで?」

「温室の跡。まだ咲いてたの」

「信じられない。七十年も前の薔薇が……」

 蒼は画面を食い入るように見つめた。

「綺麗だ。本当に綺麗だ」

 その目には、涙が浮かんでいた。

「蒼くん?」

「ごめん。なんか……嬉しくて」

 蒼は涙を拭った。

「僕、ずっと思ってたんだ。病気になってから、綺麗なものを見る資格がないって」

「そんなこと……」

「だって、僕は死ぬかもしれない。綺麗なものを見ても、すぐに忘れてしまう。それなら、見ない方がいいって」

 蒼の声が震えた。

「でも、透花さんがこの写真を見せてくれて……分かったんだ。綺麗なものは、今見なきゃ意味がないって」

 透花は蒼の手を握った。

「うん。今、生きてるから、見られるんだよ」

 蒼は透花を見つめた。

「透花さんは、どうして僕にそんなに優しくしてくれるの?」

「え?」

「僕たち、まだ二回しか会ってないのに。透花さんは、立ち入り禁止の場所まで行って、僕のために薔薇の写真を撮ってくれた」

 透花は答えに詰まった。

 どうしてだろう。なぜ、透花は蒼のためにそこまでするのだろう。

「私……誰かの役に立ちたいの」

 透花は正直に答えた。

「母が死んでから、私は何もできなかった。母が苦しんでる時、ただそばにいることしかできなかった。何も救えなかった」

「透花さん……」

「だから、せめて蒼くんには……何かしてあげたい。蒼くんが生きる理由を、見つける手伝いがしたい」

 蒼は複雑な表情を浮かべた。

「ありがとう。でも、透花さん、それは……」

「何?」

「いや……ごめん。何でもない」

 蒼は視線を逸らした。

 透花は、蒼が何か言いかけて止めたことが気になった。でも、それ以上は聞けなかった。


 それから、透花は毎日のように蒼の病室を訪れた。

 学校が終わると、透花は病院に向かう。蒼は透花を待っていて、二人は様々な話をした。

 蒼は植物の話をした。それぞれの花が持つ花言葉。品種改良の歴史。絶滅危惧種の保護活動。

 透花は本の話をした。最近読んだ小説。好きな作家。物語の中で心に残った一節。

 二人の時間は、穏やかに流れた。

 ある日、蒼が言った。

「ねえ、透花さん。僕と一緒に、あの温室に行けないかな」

「え? でも、蒼くんは外出許可が……」

「来週、一日だけ外出できることになったんだ。体調が安定してるから」

 蒼の目が輝いていた。

「どうしても、あの薔薇を自分の目で見たい。写真じゃなくて、本物を」

 透花は迷った。

 温室は立ち入り禁止だ。もし蒼の体調が悪化したら……

「お願い。これが最後のチャンスかもしれない」

 蒼の言葉に、透花の心が揺れた。

「分かった。行こう」


 一週間後の土曜日、透花は病院の前で蒼を待った。

 秋の深まった空気が、肌寒く感じられる。木の葉は赤や黄色に染まり、風に舞い落ちていく。

 蒼が病院から出てきた。

 マスクをつけ、厚手のジャケットを着ている。顔色は相変わらず悪いが、目には生気が宿っていた。

「お待たせ」

「ううん。行こう」

 二人は病院の裏手に回り、柵の前に立った。

「ここから?」

「うん。でも、大丈夫? 登れる?」

「任せて」

 蒼は柵に手をかけた。

 透花が先に登り、上から蒼に手を差し伸べる。蒼はゆっくりと登り、柵を越えた。

 着地した瞬間、蒼は息を切らした。

「大丈夫?」

「うん……ちょっと待って」

 蒼は深呼吸を繰り返した。

「ごめん。ちょっと体力がなくて」

「無理しないで。ゆっくり行こう」

 二人は温室に向かって歩いた。

 枯れ葉を踏む音。鳥の声。遠くから聞こえる車の音。全てが、不思議なほど鮮明に聞こえた。

 温室に着いた。

 蒼は入口で立ち止まった。

「すごい……」

 割れたガラスの天井。錆びた鉄骨。そして、中央に咲く深紅の薔薇。

 蒼はゆっくりと薔薇に近づいた。

 花弁に触れる。目を閉じる。

「温かい」

 蒼が囁いた。

「生きてる。この薔薇は、確かに生きてる」

 透花は蒼の横に立った。

「蒼くん、この薔薇の名前、知ってる?」

「ううん」

「『永遠の約束』って言うんだって」

 透花は老婦人から聞いた話を、蒼に語った。

 柏木徹也と美咲の物語。戦争で失われた庭。守り続けられた薔薇。

 蒼は黙って聞いていた。

「永遠の約束か……」

 蒼は薔薇を見つめた。

「でも、永遠なんてないよね。この薔薇だって、いつかは枯れる。僕だって……」

「蒼くん」

「ごめん。せっかく連れてきてもらったのに、暗いこと言って」

 蒼は笑おうとしたが、その笑顔は悲しげだった。

「僕ね、最近よく考えるんだ。僕が死んだら、誰が覚えていてくれるだろうって」

「私が覚えてる」

 透花は即座に答えた。

「私は、蒼くんのこと、絶対に忘れない」

 蒼は透花を見た。

「どうして、そこまで……」

「だって、蒼くんは私の友達だから」

 透花は蒼の手を握った。

「友達の存在を、忘れるわけないでしょ」

 蒼の目から、涙が溢れた。

「ありがとう……」

 二人は薔薇の前に座り込んだ。

 しばらく、沈黙が続いた。

 やがて、蒼が口を開いた。

「透花さん、僕から見ると、君も何か抱えてる気がする」

「え?」

「君は、僕のことを心配してくれる。でも、君自身のことは、全然話さない」

 透花は息を呑んだ。

「君のお母さんが亡くなったこと、本当はもっと辛いんじゃないの? でも、君はそれを表に出さない」

「私は……」

「僕を救おうとすることで、················?」

 蒼の言葉が、透花の胸に突き刺さった。

 透花は何も言えなかった。

「ごめん。偉そうなこと言って」

 蒼は立ち上がった。

「でも、僕は透花さんに救われたい訳じゃない。透花さんと、対等でいたい」

「対等……」

「うん。お互いの弱さを見せ合える、そういう関係」

 蒼は透花に手を差し伸べた。

「透花さん、君の痛みも、僕に見せて」

 透花は蒼の手を取り、立ち上がった。

 そして、初めて自分の本当の気持ちを口にした。

「私、怖いの。母がいない世界で生きていくのが。一人になるのが」

 声が震えた。

「母はいつも、私のそばにいてくれた。私が自分を犠牲にしても、何も言わずに見守ってくれた。でも今、母はいない。私、どうすればいいのか分からない」

 涙が溢れた。

「誰かを救うことで、自分の存在価値を証明しようとしてた。でも、それは違うよね。·············

 蒼は透花を抱きしめた。

「いいよ。泣いていいよ」

 透花は蒼の胸で声を上げて泣いた。

 初めて、誰かの前で弱さを見せた。それは恐ろしくもあり、解放的でもあった。

 やがて、涙が止まった。

 透花は顔を上げた。

「ごめん……」

「謝らないで。これが、対等な関係でしょ」

 蒼は微笑んだ。

「僕も弱い。透花さんも弱い。でも、二人でいれば、少しだけ強くなれる」

 透花は頷いた。

 温室の外では、秋の陽が傾き始めていた。

「そろそろ戻ろう」

「うん」

 二人は温室を後にした。

 振り返ると、薔薇が夕日に照らされていた。

 永遠の約束。

 それは、戻らない人への約束ではなく、今を生きる人への約束なのかもしれない。

 そう、透花は思った。

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